「悪夢は突然訪れる」

あるいは医療事故のこと

昨春、73歳の女性の手術をしました。右耳介下方の下顎角の内側にある小さな粉瘤です。エピネフリン入り0.5%キシロカイン3mlで局所麻酔し、何ら問題なく手術を終えました。その翌日。ガーゼ交換に来た時のことです。診察室に入って来るその顔を見た瞬間、驚きの余り思考は停止し、思わず食い入るように見つめました。顔面神経麻痺があるのです。それも手術をした右側に。「ぎょっとする」というのはこんな時を言うのでしょう。凝視したまま、すぐに頭の中はとりとめもなく問答を繰り返し始めています。

「これは顔面神経麻痺だ。」
「そんなはずはない。」
「手術をした側だ。無関係とは考えられん。」
「切ったとしても、下顎枝のみのはずだ。」
「なぜ3枝とも麻痺が来ているんだ?」
「帯状疱疹によるベル麻痺?」
「ベル麻痺がたまたま手術した翌日にそれも手術した側にくるなんて、そんな都合がよい話はありえん。」
「やっぱり、手術が原因か。いや、そんなはずは・・・」

本当に悪夢のような瞬間でした。第三者の意見を聞くため、隣の診察室にいた家内を呼び入れますと、彼女も入ってくるなり息を呑んだのが分かりました。二人とも頭は混乱したまま、とにかくガーゼ交換を終え、患者さんを送り出しました。すぐに議論になり、顔面神経麻痺の診断はすぐ一致しましたが、原因は皆目分かりません。しかし、とにかく耳鼻科医に診せた方が良いとの結論に達しました。たまたま患者さんがその足でOMMメディカルセンター眼科に行くと聞いていたので、すぐにOMMに電話して事情を話し耳鼻科にも受診してもらうことにしました。耳鼻科を受診後、すぐに関西医大耳鼻科に紹介され、その翌日には入院しました。治療としてステロイドの点滴が開始されました。一方、私の方と言えば、まさかとは思いつつも、「オラは切っちまったダ。オラは切っちまったダ。・・・」と替え歌を作って、ぶつぶつ言いながら、ひたすら回復してくれるのを待っていました。治らなかった時の兎眼、よだれダラダラが目に浮かび、そのたびに気が滅入りました。そうなったら本当に気の毒なので、数日後にお見舞いに行き少し回復しているのを見た時は、躍り上がらんばかりのうれしさを感じました。幸いなことに、その後も順調に回復し2週間程度で退院。2ヵ月後口角にわずかに左右差を残していましたが、それも半年後には消失し完治しました。原因について次のような可能性を教えていただきました。

1)麻酔薬に含まれていたエプネフリンにより、顔面神経の栄養血管が収縮し、そのため神経組織が虚血状態になった。
2)顔面神経は耳介腺内で分枝するが、麻酔箇所がその近傍であり、そのため全枝の麻痺を生じたのではないか。
なお、このようなことはきわめて稀なようですが、歯科治療の口腔内麻酔でも同様の報告があるそうです。

 

細川皮膚科 細川 宏